花浅葱の思いつくまま 気の向くまま…
page top
オクラの花
ここのところブログを休みがち。
特にお盆に入ってから、少し気が抜けた感じがする。

でも、少なからず「楽しく写真を撮る」原動力になっているわけだから
そんなに長い間、休むのはまずい。
よく言うではないか、
「1日休むと1週間分遅れる」と。
私も幼い時、ピアノの練習をあまり熱心にせず
この言葉をよく聞いた。
確かにあの頃もっと練習していれば
今と全く違った人生を歩んでいたのかもしれない。

しかし、ピアノを弾いていて楽しいと思えたのは
やめる前の1年ほどだけだった。
後の15年はたいして楽しくなかったのである。
それなのにやめてから5年程、事あるごとに人から「弾いて」と言われ、
すっかり嫌気が差していたことを思い出す。
「イヤ」というのに「どうしても聴きたい」とせがまれるのだ。
人はなぜあんなに弾いてほしがるのだろう。
私には未だにその心情はわからない。
練習を全くしていなくて、うまく弾けないとわかっているのに
弾かされる人の気持ちなど、考えたこともないのだろうか。

ブログって不思議だ。
まず、タイトルを決めて打ち始めるのに
書き進めていくうちに、思いもしない内容になっていることがある。
ちょうど今日はそんな感じ。
ずいぶん昔の事に対して、まだ自分がわだかまりを持っていることに気づく。
そんなの、さっさと忘れてしまえばいいのだ。
長い間思っていたところで、自分の糧になるものは何一つない。

写真を撮るとき、イヤだと思うこともある。
それはどういう時かというと

・撮られたがらない人の写真を撮らないといけないとき
・いくらどう探しても、被写体(風景なども含む)のいいところが見つからないのに
 撮らないといけないとき

他にもまだあるけれど、この2つはかなり辛い。
もちろん、自分の未熟さが起因しているとは思っている。

しかしピアノと違って写真の場合は、楽しいことのほうが断然多い。
時に、ファインダーを通して見たとたん、すべてを忘れてしまう。
この「超集中」状態に入ったまま撮り終えることができれば
結果もほぼ間違いない。
私が写真を撮っていて、一番幸せだと感じる時である。

ブログの写真はとってもお気軽。
責任も強制力もない。
昨年の11月に始めた時、久しぶりに「楽しく」写真を撮ることができて
すごくうれしくなった。
あぁ、まだ私にもこういう感覚が残っていたんだ、といううれしさ。
それは、それまで何年もの間、必要としていたのに持ち得なかったものだった。

日々の暮らしの中で、特別でないものと向き合い切り取っていく。
これが私のスタイル。
このブログがそういう機会を与えてくれた事に感謝している。
そして、今日も庭に咲くオクラの花が目に美しい。

6052.jpg

何気ないことに気づくだけで、幸せな気持ちもいっぱい増える。
そう教えてくれた写真にも感謝したい。

page top
Bagel Lovers(1)
久しぶりに母が成城石井でジュノエスクベーグルを買ってきた。
ミックスベリーベーグルである。
市販品で飽き足らず、また、コスト面のこともあり自分で作るようになった私だが
たまには他の人が作ったベーグルを食べてみることも必要だ。
でないと「独りよがりになる」という、最大の罠にはまりかねない。

今までいろいろなジャンルの飲食店で話を聞いてきたが、
自分の料理が一番だと思っている人が少なくない。
いろいろな味覚の人がいるから、いろいろなお店がやっていける、
というのが一般的な考え方だ。
私がおいしくないと思っても、他においしいと思う人がいればそれでいい。
第一、自分の料理が一番という気概がなければ
とても自分の店など持てないものなのかもしれない。

私は料理に関して、独りよがりの満足はイヤだ。
なぜなら、人から「おいしい」と言ってもらえるとうれしいものだから。
では、写真はどうか?
少なくとも一番とは思っていない。
私は他の人が撮った写真を見て泣いた事があるが、
自分が撮った写真を見て泣いた事はない。

一枚の静止した画面から想像を掻き立てる何か。
その写真にはそれがあった。
私が撮った写真にはそれがないのか。
撮った状況がわかっているから、それ以上に想像が掻き立てられないのか。
どちらなのかは、自分ではわからない。
私にとって重要なのは、撮るときに【心が動いた】かどうかだけだ。

さて、ジュノエスクベーグルの話に戻ろう。
買ってきたベーグルは、作ってから時間が経っているというのに
表面に「パンッ」とした張りがある。
後は、やはりあの「焼印」。
これがたまらなく、このベーグルの魅力を引き立てている。
そして、適当に撮った時のほうが、写真の出来がいいという皮肉のおまけ付。

5961.jpg

食べ物にとって、姿かたちが魅力的というのは最大の武器。
人に「食べたい」という欲求を起こさせなければならない。

そして、写真においては「肩の力を抜くこと」。
これは写真だけには留まらないかも知れないが、
考えれば考えるほど、「心」の感度が落ちてしまう。
リラックスした状態でいろいろなものに目を向ければ
今までとは違う何かが、必ず見えると思うのだ。

page top
自分だけで決められないこと
自分だけで決められないこと。
そんなことはいっぱいある。
第一に、生きていることは自分では決められない。
朝、必ず目が覚めるとは限らない。
当然のように朝は来るけど
生きているのは、当然ではない。

何も悲観的になっているのではない。
だからこそ、
自分の気持ちにできるだけ忠実でいたいと思う。
必ず来るそのときのために。
そのとき「これでよかったんだ」と
思えるように。

でも、それって少し傲慢。

5204.jpg

自分だけで決められないこと。
他人のことは私には決められない。
その人が今どこにいて何をしているのか
私には知る由もない。

それが「運命」や「縁」というものなのか。
もしそうなら、従うしかないだろう。
私の想像をはるかに超えたところで
「縁」というものは存在しているのだから。

写真を撮るとき、頭で考えない。
心のヒダが捉えたものを感じ取り写し出す。
それがいつでもできるといいのに。
でも、できないから面白い。 たぶん…そう。

ここのところずっと考えてる。
ぼんやりと。
はっきりと。
そのどちらでもなく。

page top
写真を撮ろう(1)
なんだかとっても偉そうな題だ。
でも、そんなつもりはさらさらなくて、
もっと写真を楽しんで撮ろうよ、って感じ。
私が今撮っている写真はわりと女性向だから
男性には興味を持ってもらえないかもしれないけど。

私もそうだったように、最初の頃は
「撮るものがない」ということで困ることが多い。
撮るものがないから、わざわざ買ってきて用意したりする。
そうすると「大変だから撮らない」という悪循環にはまる。

世の中すっかりデジカメが普及して、
現像にお金がかからなくなった。
撮った写真もすぐに見られるし、なんて便利なんだろう。
自分のレシピを載せているサイトの写真も
みんなすごく上手に撮ってるよね。
たまに「ヤバッ」って思うぐらいウマイのがあったりして。

私もこのブログを立ち上げてからというもの、
久方ぶりに日常の写真をよく撮るようになった。
それが結構楽しくて、そうなってくると
今まで見えなかったものが見えてきたりするので
面白くなり、また撮るといういい循環が生まれる。

例えば今朝、キッチンに母からの伝言メモがあった。

4942.jpg

タッパーの中はガーリックバター。
母が置いていった状態から1mmも動かしていない。
こういうメモ書きって撮影用に書くとわざとらしいのに
そうじゃないとなんだかかわいく見えるから不思議。

少し前、ケーキの撮影用にミントの苗を買ってきた。
植えたらどんどん成長し、鉢からはみ出す勢い。
「水に入れておけば根が出るよ」と聞いて
コップに活けてみた。

4950.jpg

たまたま置いた場所がよかったのかもしれない。
撮影するつもりではなかったが、
置いたとたんに「おっ!」っと思って撮った。
今見ると、もう少し背景の面積が広いほうがいいかも。

お昼に食べようとしているサラダ。大量! w(゜0゜*)w
母が育てているバジルをちぎって散らした。
これも撮影するつもりがなかったから器に盛り付けていない。

4955.jpg

最初から撮影するつもりなら、バジルの葉はちぎらず
そのままにしていたかもしれないな。
そして母のメモどおり、バタールにガーリックバターを塗って
こんがり焼けばガーリックフランスの出来上がり。

4962.jpg

何気ない日常にも愛すべき「被写体」は必ずある。
そういう目で見るかどうかで、世界は全く別なものに変わる。
大げさなようだけど、これは写真だけではないと思うのだ。

© 明日の私を見つける旅. all rights reserved.
ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー FC2ブログ
Page top
FC2 BLOG